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第2回:自己満足?否、自己充足。

  • 2022年5月18日
  • 読了時間: 6分




お晩です。Kです。


ようこそ、おいでくんなまし。



前回は「#自己」について取り上げました。

今回はそれに絡めて俺が憧れた、俺の #人生#音楽 に傾倒する大きな要因となったバンドを振り返ってみます。




俺が憧れたバンド。

彼らは無意識的に「①#日本人 の #自己喪失、#自己否定、それに起因した矛盾だらけの社会に正面から立ち向かう姿勢」を結果的に表現していたと思います。


当時の社会に、自分達が感じる閉塞感に対する強烈な #アンチテーゼ だったと俺は思います。


衣装を着て、化粧をする(自分を虚飾する行為)がまさにそれらに当てはまるのではないでしょうか。

#心理学者 の友人に #ユング の、「#自我と無意識」という書籍を勧められたことを思い出します。


ここで言う" #虚飾"は #ネガティヴ なものではありません。

「理想の自分、こうありたいと思う自分」に近づける為にする虚飾です。

俺はこのスタンスの虚飾に「#芸術性」を感じます。



彼らがそういった「枠(レール)」を自覚していた頃は、自由を求めてそれに抗うような、

ぶち壊すような様が素晴らしい活動内容に繋がっていた、そう思います。


しかし、彼らが活動で実現したのはあくまで「内枠」を壊しただけで、「外枠」を壊せなかったのではないでしょうか。

そして「内枠」のみ破壊したことにより、かつて「内枠の中」にあったものと「外枠の中」としての境界のみが無くなった。


それを「#自由」と履き違えてしまった。余計に自分の生き方がわからなくなった。

結果、外枠である"金"を思想軸にして生きざるを得なくなった。



それが最終的に「#新自由主義的」な思想、活動内容に至っているのではないでしょうか。

これは俺を含めた現代人の思想に近いものを感じてなりません。



そのメンバーのソロ活動での、遺作的楽曲の歌詞がそのことを如実に語っているように俺には思えます。

彼はその弊害に気付き、因果に喰われ最終的に「#破滅」した。


そう俺は勝手に思っています。




さて、彼らの活動によって、世間に「#ビジュアル系」というジャンルが広がりました。

そしてそれを謳い文句に登場したアーティスト達がいました。


俺は彼らに①をまるで感じません。

あるのは「②#ファッション、#ビジネス としてのそれ」であり、それがより一層" #自己喪失した日本人"を彷彿させられ、非常に複雑な気持ちになります。



だからあまり魅力を感じなかったのだと思います。


全否定したいわけではありません。音楽として理論的な視点で尊敬できる要素は勿論あります。



①で表現されていたものには、「#内発的自己(#主体的自己)と乖離した #外発的自己(#客体的自己)と #社会的自己 に対する過剰なまでの #コンプレックス」を感じさせられ、

それに向き合い、抗おうとする様を #美学 としたかっこよさがあったように俺は感じます。



②にあるのは「②で虚飾した自己に対する愛」、"周りから評価されるようにする、"恰好つける俺"のように思えてしまいます。


先人がレールを壊してくれた「外枠に囲われた中」で、与えられた環境で #社会的自己 に甘んじている。

そんな虚弱な #外発的自己(#客体的自己)を嘆く自分(#内発的自己)に酔っている、そのように俺には感じられます。



恰好いい、と「いい」。自分と"自分"。


この2つは天地の差があると思います。


もう一度言います。全否定したいわけではありません。


実際俺がこんな風な考えのもとで音楽に向き合っていたことがあったり、

俺が見てきた自称音楽人達も踏まえて、俺なりに邪推して言っています。




そしてまたこれらは、昨今の「#LGBTQ」の問題に近しいものを感じます。


全ての人に当てはまるわけではないかと思いますが、

自我が" #無自覚的な自己否定"から逃れる手段として、

「内枠を無くし、レールを失い、外枠のみに囲われた世界に迷い生きる」という点で共通していると思います。


その結果「#自己喪失者」として、#イデオロギー でなんとか自分を成り立たせようとしている、そう俺は考えます。



俺自身、" #古きよき日本"的な家柄に生まれ育ち、家で教わってきた生き方が、新自由主義的な教育と世の中の仕組みと嚙み合わないことにひどく葛藤しました。


結果無意識的に、「#社会的自己」に「内発的自己(主体的自己)」が吞み込まれ、

「外発的自己(客体的自己)」を放棄しようとした経験のもと、このように述べています。


「#性」「#出自」の放棄は一番顕著に確実に、「外発的自己(客体的自己)」を切り離す策であり、それにより「自己喪失」していると俺は思います。

結果的に"枠の外(自然)"的視点を持った「内発的自己(主体的自己)」を失ってしまうと俺は危惧しています。


俺はこれまでの歴史で「#社会的弱者」の声が悪用された実例があった、そのことも踏まえて考えています。




昔、知人に言われたことがある言葉があります。

「#自己満足 の #オナニープレイ


昔の俺は、この言葉に対して何も抗弁できませんでした。

俺は #ダダイズム なのか、そう思われることは嫌か、など幾度も自問自答しました。



前回の記事、そして上記までに述べた内容を踏まえて、今なら言えることがあります。



俺は今まで自分の作品にも演奏にも、1度たりとも「内発的自己(主体的自己)」を満足させることができたことはありません。


日常生活や、ときどき作品や演奏でも「外発的自己(客観的自己)」や「社会的自己」を満足させようとしたことはあります。

それらは一般的に端的にいえば、「#地位」「#名誉」「#金」といったものが近いのではないでしょうか。これこそ #自己満足 であると俺は考えます。


でもそれらは一時的なもので、毎度最後に至ったのは「#虚無感」でした。

長期的視点で、上手くいったと思えたことは俺は1度もありません。

あくまで俺の場合かもしれませんが。




俺は音楽が大好きで、音楽をやりたい、バンドをやりたいと思って、音楽の為に人生を捧げようと生きてきました。

ただこれは厳密には違ったんだと今ならわかります。



俺がやりたいこと、それは俺の「内発的自己(主体的自己)」を認めたい。

そして他の人達にもそれぞれにある「内発的自己(主体的自己)」を見つけてほしい。認めてあげてほしい。



それが、卵が先か鶏が先かどっちにせよ、

「"歪"な社会」と、それぞれそのなかの「"歪"な外発的自己(客観的自己)」と

「"歪"な社会的自己」による苦しみを少しでも減らすことに繋がると強く感じています。


そうして世の中が少しずつでも良くなっていってほしい。



その為に" #嘘"による" #既成事実"ではなく、#真実 を見極めて、それらを音楽をはじめとした色んな手段で表現して、それを自分が認知したい、それぞれに自覚して頂きたい。



それが俺自身も、皆さん一人ひとりにとっても「#人生を取り戻す」ことに、「#自己を恢復」することに繋がると俺は信じています。


改めて言い直すと上記の意味で、俺がしたいのは音楽ではありません。



俺がやりたいこと、それは「#有無想生」です。

それは、俺の憧れたバンドができなかった"外枠"を壊すこと、そしてその先の世界の道標のひとつを作ることです。




ここの記事を踏まえて、俺たちの作品をご堪能頂ければ、まこと嬉しく存じます。

もし俺たちの音楽を気に入ってくれたなら、応援してください。



"#多様性 を受け入れる"という、"囚われないこと"に囚われた排他的 #イデオロギー 要素にご注意を。

俺もこんな風に言語化して整理するうちに、イデオロギーに喰われないように気を付けます。



ではこれにて、お暇いたします。












 
 
 

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